「〇からの出発」と「九〇点からの出発」

shirasagikara2016-01-25

70年前の1946年正月の今ごろ、全国どこの駅前にも「ヤミ市」ができ、すきっ腹をかかえた失業者があふれ、日本はへとへとの敗戦の中にいました。敗戦後の日本は「〇からの出発」でした。それが30年たつと日本の経済力は押しも押されもせぬ世界トップ級になっています。なぜでしょう。大きな理由は教育の力です。
その70年まえの失業者は、徳川封建時代から、明治・大正・昭和をへて、よく教育され、考える力、物をつくる力、組織運営の力を持った失業者でした。しかも世界最高水準の読み書き能力があり、勤勉で正直な日本人失業者だったからです。おかげで30年後には世界水準で「九〇点」まで急速に復興できたのです。
孫たちを見ていると、すべてが備わった「九〇点の日本」に生まれ育ち、出発しています。快適な生活をべつに驚きもなく感謝もしません。空気と同じなのです。それは成熟社会のしるしです。しかし、わたしたち老人が「九〇点」とおもう地点が、じつは孫たちにとっては新しい「〇からの出発点」なのです。毎日激変する世界に生きているのです。
キリスト信仰も似ています。日本でキリスト教の宣教がゆるされてから150年、日本にも親代々のクリスチャン家庭がたくさん生まれています。しかし、それぞれの世代はたえず「〇からの出発」をするのです。ここが仏教徒とちがいます。「家の宗教」でなく「個人の信仰」だからです。
初代は、キリストの救いに感動して涙を流さんばかりの「〇からの出発」でしたが、4代、6代となると感激もうすれます。それはキリスト信仰が特別のことではなく、当たり前のこととして受け入れる「九〇点から出発」した成熟のしるしでもあります。しかし、祖父の目から見れば「九〇点からの出発」が、孫にとっては「〇からの出発」です。
たしかに初代や二代目クリスチャンのような激しさはありません。さりとてお寺さんとは関係なく、信仰といえばキリスト教抜きには考えられなくなっています。キリスト信仰の遺伝子が埋め込まれいるのです。
まだ洗礼を受けていない孫からカードが届きました。「また、おじいちゃんの聖書の話を聞きに行くからね」。孫たちも主が育ててくださいます。彼らなりに新しい「〇からの出発」を目ざしているのです。
「自分の子どもたちが真理に従って歩んでいると聞くほど、うれしいことはありあせん」(第三ヨハネ4節)<写真は雪の燈籠>