「山がない・月の武蔵の江戸育ち」

shirasagikara2016-02-05

「さてそのつぎに控ぇしは、月の武蔵の江戸育ち」は、歌舞伎「白波五人男」の三人目、忠信利平の口上です。この「月の武蔵の江戸」というのは、関東平野が広く、身近に月をさえぎる山がない武蔵(いまの東京・埼玉)だからこそ生まれたことばです。
東京都民の多くは、だいたい日本各地からの出身者です。その田舎者が東京へ来て、まず驚くのは「山がない」ことです。もちろん、遠くに富士山や筑波山が見えます。しかしそばに「山がない」のです。じつは日本中、山だらけです。だから近くに山がないとふつうの日本人は、なれるまで落ち着きません。
神戸・淡路大震災のあと、ある神戸大学名誉教授が、娘の住む湘南の茅ヶ崎疎開されました。しかし毎日見なれた六甲山が見えないと、また元の神戸の仮家屋へ帰られました。
精神科医の関根義夫先生からお聴きした話。
「ある孝行息子が、母の死後父のため古い家を改築した。そのあと父がうつ状態になり口をきかない。医師が話を聞くと『音がしない』とぽつりと言った。古い家で、毎日ガタピシ開け閉めしていた雨戸の音。お手洗いの扉がギイーッと閉まる『聞きなれた音』だ。息子は医師と相談して、父が『見なれ』母が『使いなれた』戸棚類を、納屋から取り出し父の部屋に据えた。やがて父のうつも癒えた」という。
「見なれた山」「聞きなれた音」「使いなれた棚」は、日常の「あくびが出るような 」平凡なものばかりです。その平凡の中に宝があるのです。田舎の「見なれた山」は、それを見ただけで方角さえわかります。「聞きなれた音」は、激しい川の流れさえ心が安らぎます。「使いなれた棚」は、家族の歴史を思い出させます。
ふつう非凡が偉いとされがちですが、だれもが非凡になれません。大部分のわれわれは平凡のうちに一生を終えます。そして、この平凡であり続けることこそ非凡なのです。イエスさまは、みなが「見なれ、聞きなれた」野の花、空の鳥を指さして珠玉のことばを語られます。「栄華を極めた(非凡な)ソロモンでさえ、この(平凡な)花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6・29)
「空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈りいれもしない。だが天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ6・26)<写真は庭の白梅>