十二使徒群像「無言のマタイ」

shirasagikara2010-01-25

十二使徒を彫った6年のあいだ、ずいぶん使徒たちと入魂(じっこん)になった。時には群像を抱え込んで彫るからだ。わたしの群像ではマタイに福音書の巻物を抱えさせた。(写真)

その十二人のうち、聖書で無言なのは熱心党のシモン、アルファイの子ヤコブ小ヤコブ)、バルトロマイと、マタイの4人だ。ヨハネ福音書1章のナタナエルをバルトロマイと同一人物とすれば、1人減る。しかし熱心党のシモン小ヤコブが無言でも驚かないが、マタイの沈黙には驚く。なぜなら、わたしたちが聖書を読み始めたときから「マタイO章」と、マタイの名を呼びならわし、なんだか親しい名前になっているからだ。
エスは数ある徴税人からマタイを選ばれた。彼の仕事ぶりが断然ほかの人と違っていたのに違いない。塚本虎二という伝道者に、ある人が仕事をやめ伝道者になろうかと相談した。塚本は「君は職場で絶対やめないでくれといわれる存在か」と聞いたという。いまの仕事がいやで伝道者にはなれない。一番仕事ができるマタイを主は召されたのだ。
その徴税人マタイは、ローマの手先と卑しめられる職業だった。それをあえてイエスは弟子にされた。またそれをあえて書いたのはマタイ自身だ。4つの福音書の弟子一覧表でマタイを徴税人としるすのはマタイだけだ。そこに恥ずかしい過去をさらけ出すマタイの偉大さがある。マタイは、主の弟子にされた喜びの、あまりの大きさのゆえに、恥ずかしい自分の過去など、どうでもよいこととなった。わたしたちも過去にどんなに口惜しいことや、すばらしいことがあったとしても、イエスと出会えた喜びのゆえに、そんなことは小さなこととなるのと同じだ。
マタイは、税関で帳面づけをしていたため「書く能力」が高く福音書を残した。しかも、自分については沈黙し、ひたすら主イエスを指差した。もしマタイ福音書がなければ、あの東の博士の物語も、山上の説教も消えるのだ。マタイさん、ありがとう。
無言のマタイ、沈黙のマタイは、わたしの群像では、胸いっぱいに福音書の巻物を抱えて立ち、その肩にヨハネ福音書を書いたヨハネがそっと手を置く。
十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、、、」(マタイ10・2)