イエスさまの真逆の命令

shirasagikara2016-02-15

マルコ福音書1章で「重い皮膚病患者」が癒されます。5章では「重い精神の障がい者」が癒されます。イエスさまは、重い皮膚病を癒したあと「だれにも言うな」と厳命されます。ところが、精神の障がいに苦しんだ人には「家に帰り、主が、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせよ」と言われます。正反対の真逆の命令です。どうしてでしょう。
重い皮膚病のかたは、癒されるまでは信仰一筋でした。しかし、癒されたとたん不信仰になったからです。43節の「厳しく注意し」は、「馬が後ろ足で立ち上がるさま」です。イエスさまは彼の不信仰をよほど危ういと、いきり立たたれたのです。重い皮膚病のかたは、主にひざまずいて願い、それが聴かれて癒されました。その喜びを人々に伝えて何が悪いのでしょう。ところがイエスさまは、癒されたあと、その人が何を見つめるかを問題にされました。
彼は、自分のかじかんだ両手がひらくのを感じました。弱かった足もしっかりしたのです。「うわあ〜治った!」と自分を見つめます。「彼は(「だれにも言うな」の厳命にそむき)大いにこの(自分が治った)出来事を人々に言い広め始め」ます(45節)。おかげで「病気癒しのイエス」の評判が立ち、かんじんの福音伝道がさまたげられました。
いっぽうの重い精神の障がいに苦しんだかたは、「汚れた霊、出てゆけ!」というイエスの叫びに衝撃を受け、頭のてっぺんから足の先まで、す〜と全身が治まってゆくさまをからだに感じました。ここまでは、重い皮膚病患者と同じです。
そのあと彼の目はイエスに注がれました。ガリラヤへ向かうイエス一行の舟に、彼は「いっしょに行きたい」と願うのです。自分の病気が癒されたことより、イエスご自身を見つめ、イエスと共にいることを喜びとしているのです。
信仰深いかたでも不信仰になることがあるのです。自分や子どもが癒されるように熱心に祈るときは信仰一筋でしたのに、癒されたとたん、癒されたことを喜んで、癒しの本源のイエス・キリストを見ないとき、それは起こります。心すべきことにこそ。
「そこで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた」(マルコ1・45)<写真は紅梅>