「各隊、使役3名!」受動から能動へ

shirasagikara2016-03-15

<予告・この3月をもって「藤尾正人のブログ」は終了します>
むかし日本帝国陸軍の兵士だったころ、ときどき「各隊、使役3名!」という命令が来ます。「使役(しえき)」とは任務以外の雑用作業です。「ここのものを、あちらに運べ」とか、「便所の汲み取り」とかをやらせるのです。しかし、これは個人指名ではありません。各隊というグループへの命令です。そのとき進んで出るものは少ないのです。
しかし、わたしはいつも喜んで出ました。なぜなら、わたしは「天皇のためには死なない」「キリスとの兵士だ」と心に決めていたからです。だから軍隊は、わたしにとってまるで修道院の生活でした。規律正しく、質素で、忠実で、勤勉でした。
クリスチャンであることがわかり聖書は実家へ送り返されました。教会も、牧師も、聖書もない軍隊でも、神さまがいられ、いつでもお祈りはできました。天を見上げ、走りながら祈っていて穴に落ちたことがあります。通りかかった週番将校が「何をしている」とどなりました。「祈っています」とも言えず困りました。
「軍隊生活は奴隷だ」という見方もあります。「朝は早よから起こされて/人の嫌がる拭き掃除/八時のラッパでメシを食い/食うや食わずで呼集され/東を向いては捧げ銃(つつ)/西を向いては担え銃」。たしかに自分の意思は踏みにじられ、上官の命令に絶対服従の軍隊は奴隷の立場に似ています。
ところが見方をかえて、奴隷とおもわれる軍隊もキリストの兵士と心得て見回せば、目が上に向きます。だから規則でがんじがらめの兵営でも、じつに生き生きと動けるのです。するとそこは「主に導かれる軍隊」になりました。「各隊、使役3名!」のとき、ボランティアとして出てゆくと、たいていいつも、出てくるのは同じ顔ぶれでした。そんな戦友と仲良くなりました。それまでやったことのない「超くさい便所の汲み取り」の使役も、戦友が宇都宮高等農林(いまの宇都宮大學農学部)の学生で、「まかせな」といって、器用に肥え桶に汲んでくれ、ふたりで天秤棒をかつぎ、なんども往復しました。
わたしたちの生活も、つらい、いやだの受動ではなく、環境に支配されない能動に切り替えれば、「主に導かれる日常」に変わること請け合いです。「キリスト・イエスの良い兵士として、わたしと苦しみを共にしてほしい」(第2テモテ2・3)<写真は奥丁子桜>