月のかげ、十字架のかげ

shirasagikara2016-03-05

「月かげさやかに み空にかがやく、ハレルヤ、ハレルヤ、」(讃美歌75番)。アッシジの聖フランチエスコの作詞です。この「月かげ」の原文は「月の光」に違いないのですが、日本語らしい「月かげ」という翻訳です。「かげ」というのは、ほんらい「光によってできる物の影のこと」です。ところが日本人は万葉集の時代から「ともし火のかげにかがよう」と、「光」を「影」としてとらえています。
なぜ日本人は「光」と「影」という正反対のものを、ひとつにとらえたのでしょう。「影」を通して「光」を考えたからではないでしょうか。日本人は光だけを見ないのです。「光」と「影」を複眼で同時にとらえているのです。「影」は「光」が強いほど濃くなります。「影」は「光」なしに生まれません。「影」があるということは「光」があることです。つまりこの二つは一つなのです。光が消えれば影も消えます。ここから「日の光」「月の光」「星の光」を、「日かげは移り」とか、「月かげさやか」とか、「星かげのワルツ」などのことばを生んだのです。
これが日本人の感性です。つまり「裏を見て表をさとる」のです。裏をじっと見つめることを大事にします。16世紀、日本に来たポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは日本人が着物の表より裏に上等の布を使うのに驚いています。それは今にいたるまで日本の伝統です。人に見せない羽織の裏や襦袢はもちろん背広の裏まで凝った模様にします。こういうことは外国にみられません。茶道でも表千家があり、裏千家があります。裏が劣るとはだれもおもいません。裏のほうが上等という思いがあるからです。
エスさまの十字架の表側を、ローマの兵士も母マリアも見ていました。弟子に捨てられ、民衆にあざけられ、ユダヤのリーダーから「これでイエスの宗教運動は終わり」と烙印(らくいん)をおされた弱々しい姿でした。
ところがどっこい、その「十字架の裏側」で「罪のゆるし」というすごいことが完了していたのです。「十字架の表」は敗残のイエスさま。「十字架のかげ」は勝利のイエスさま。おのおのがた、表とかげを同時に見ることが大事でござるぞ。「キリストは、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(第1コリント5・6)<写真はクリスマスローズ