むっとする話

それはソウルの金浦空港の搭乗受付カウンターでの出来事でした。
わたしは前から2番目に並んでいました。ふと搭乗券がないのに気づきトランクをひろげチケットを探したのです。私の列の後ろのかたたちは、どんどん手続きをすすめます。やっと搭乗券が出て来て、それを手に私が窓口の係員に差し出すと、事情を見ていた受付の女性はすぐ受け取りました。その時、列の後ろから怒鳴り声がとどろきました。手ぶりで「横からの割り込みだ」と叫んでいるようです。韓国の友人と空港職員が説明しても聞きいれません。よほど「むっと」したのだろうと私は同情しました。
ところが韓国語には、この「むっとする」という表現がないというのです。「むっとする」のは、怒りをぐっと胸に収める時に起こる感情です。韓国人は胸に収めず発散するからだと聞きました。
聖書には「むっとする」有名な話が3回あります。
アベルが神さまにほめられ、カインが顔を伏せた話(創世記4章)。夕方1時間しか働かぬ者が、1日分の賃金をもらい、早朝から汗水流した労働者が不平をもらす話(マタイ20章)。帰還した放蕩息子が優遇され、むくれる兄貴の話(ルカ15章)です。
三つとも、むっと怒ったのは、自分の業績を誇ったほうでした。カインは粒々辛苦の農産物を自慢げに捧げました。アベルは羊の初子を恥ずかしげに捧げました。主は捧げた品だけでなく、捧げる態度を見られたのです。ほめられたのは、夕方の労働者や、放蕩息子のように、自分を謙遜にして主をあがめたほうでしいた。それが、「むっと」するか、しないかの分かれ道です。
「兄は怒って家に入ろうとせず、父が出て来てなだめた」(ルカ15・28)