ほっとしなけりゃ福音じゃない

shirasagikara2015-05-15

「ほっとしなけりゃ福音じゃない」ということばが、わたしの頭にひらめいたのは、フジテレビのコマーシャル「おもしろくなけりゃテレビじゃない」を耳にしたときです。1982年(昭和57)のこと。おやっとおもいました。そうだ、キリスト信仰も「ほっとしなけりゃ福音じゃない」と連想したのです。
キリストを信じることは、ほっとすることです。ゆったりすることです。自由になることです。解放です。前週5月5日のブログで、内村鑑三が「奇異なる信仰」を書き、何が出来なくても「イエス・キリストを信じつづけること」が出来れば、人生唯一最大の事業をすませていると教えたことを紹介しました。これは「ほっとする」信仰態度です。
わたしの信仰の師・酒枝義旗先生は、早稲田大学の学生時代、キリストを信じ熱列に伝道されました。毎晩、太鼓をたたき賛美歌を歌い福音を怒鳴る路傍伝道をしないと寝つきが悪いほどでした。自分がうかうかしているうちに、滅んでゆく魂があると、いてもたってもいられなくなり、あせっていられたのです。
それが内村鑑三の高弟・藤井武と出会って信仰が一変しました。藤井武から「何もしなくてもいいんです」と言われ驚いたそうです。「伝道だってしなくていい。それは主がなさること。わたしたちは、お手伝いするだけです」。このことばで、酒枝先生は肩の荷が、す〜と軽くなったと話されました。
藤井武は、内村鑑三から人生最大の事業は「キリストを信じつづけること」と教えられていたのです。その藤井武によって「あせらない熱心」に酒枝先生は変えられました。内村から藤井へ、藤井から酒枝へ、酒枝からその弟子の末席の藤尾へと伝えられたこの「あせらない熱心」を、わたしは「ほっとしなけりゃ福音じゃない」ととらえました。
このキリスト一番が心底わかった人、そのほかのことはどうでもいいとわかった人こそ、大きな働きを、気楽に、熱心にキリストのためにやりぬくのです。だから藤井武も、酒枝義旗も、10巻にあまる聖書の著作集を残しました。「何もしないでいい」と、ほっとして、のんびりした人ほど、「大きな仕事をされる」のです。あのパウロのように。
「わたしが福音を告げ知らせても誇りにはならない。そうせずにはいられない」(第1コリント9・16)<写真は雪ノ下の花>