仏教寺院本堂でキリスト教の葬儀

shirasagikara2015-05-24

仏教寺院の本堂で、キリスト教の葬儀の司式をしたことがあります。
1971年12月23日、名古屋で桜井錠一さんが主に召されました。74歳でした。わたしの妹、初穂の主人・桜井宣隆さんの父上です。宣隆さんは、無教会の政池仁先生の信仰の弟子でした。すでに宣隆さんの影響で、その母上も、妹さんの一人も、わたしの父から受洗。また父上の錠一さんも、病床でわたしの父から洗礼をうけられました。
桜井錠一さんは獣医師です。鉄道以外まだ輸送力の主流が馬だった敗戦前、名古屋の物流拠点の中川区に住まいを定め、馬の病気や蹄鉄の面倒を診、敗戦後は名古屋の市議会議員を2期されました。背筋がぴんと伸び、弁舌さわやかに「ご承知と思うが」が口ぐせでした。あの名古屋市雄大な道路網計画にも参画され、米軍の爆撃で自宅も焼けながら、焼失した近くのお寺の再建にもつくされました。
桜井家としては歳末の葬儀で、教会を借りたくてもつきあいがなく、その式場に困っている母上を見かねて、日ごろ懇意な方が近くのお寺の有力な檀家として頼みこんでくださり、お寺でキリスト教の葬儀がゆるされたのです。
黒白の段だらの幕が、本堂の仏像を隠すように、ぐるりと張りめぐらされ、わたしはその幕に「式次第」と「賛美歌」を大きな紙に書いて張り出しました。ともかくお寺さんでのキリスト教の葬儀で、緊張しながら親族やご近所の参列者に「十字架と復活」の福音を語りました。立って話しているわたしの左手の段だら幕がちょうどつなぎ目で、なにかの拍子に開きました。すると和尚さんがそこに正座されていたのです。
わたしは、そのお坊さんの偉さを思いました。身を低くして「異教徒の」聖書の話を聴いていられるのです。困り抜いている異教徒を助けられたのです。いかに寺の再建に尽くした市会議員でも、信徒から疑義が出たでしょうに。ひるがえってあの時代、キリスト教の教会で、もし仏教の葬儀を頼まれて「はいどうぞ」といえた牧師がいたでしょうか。牧師がゆるしても信徒が反対したはずです。仏教の懐の深さを思い知らされました。しかし寺院本堂で十字架復活を語れたとは、なんとも珍しい主の導きでした。わたしがまだ国立国会図書館にいたころの話。
「時をよく用い、外部の人にたいして賢くふるまいなさい」(コロサイ4・5)<写真はクレマチス