キリスト教待晨集会

1月1日(日)は、わが家の近くのキリスト教待晨(たいしん)集会の礼拝に出席した。
内村鑑三の弟子の、藤井武の弟子の、酒枝義旗(さかえだ・よしたか)先生が始められた集会だ。だから無教会の流れをくむが、無教会らしくなく、会堂ももち、時に洗礼や聖餐もする。しかし牧師はいない。
じつはわたしも、その始めのころそこにいた。会堂が出来る前、その集会はわが家で数年つづけられた。だから故郷に帰ったような懐かしさをおぼえる。
1981年、酒枝先生が召されたあと、もう四半世紀も、男女の会員が交替で聖書の話をして、集会をつづけ、その日も担当の男性が詩篇130編を力強く話し、60名近い会衆が賛美の声をあわせた。
キリストの教会は本来このような自発のものであった。人間でなくキリストに導かれているこの集会は、キリストが今も生きて働かれていることを証明している。
「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして」(詩篇130・6)