古い壺

shirasagikara2006-01-25

韓国の友人からいただいた青磁の壺がある。その形、その色、そのデザインといい見事なものだ。りっぱな壺はそこに置かれているだけで存在感がある。人間も同じだ。
103歳になる母が「何の役にも立たない、みなに世話をかけるだけ」という時、「古い壺はそこにあるだけで値打ちがある」とわたしは答える。
壺はそれぞれの用途があって作られた。水を汲んだり、油を入れたり、種を蓄えたり、また花を飾ったりするために。母はその壺の役目を終えたが存在そのものが光る。
そうだ人間は壺だ。人それぞれ壺を使って働くが、やがて人生の定年を迎え壺の役目を終える。終えた時たとい小さくても、そこにあるだけで周りの喜びになるのがいい壺の形だ。つらいのはひび割れた壺だ。
ライブドアという会社は、りっぱな壺に見えたが、ひび割れの壺だったらしい。あっという間に数千億円の資産が流れ出してしまったとさ。
「信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマ4・5)