裏通りの教会

きょうは家内と阿佐ヶ谷まで裏通りを歩く。いまでは信じられないが、むかしこの幅8メートルほどの狭い道をバスが対面で走っていた。肉屋の軒先の「こま切れ××円」の紙札をバスの窓がこすった時代。木製電柱はバスにこすられてどれも痩せた。
それが広いけやき並木の大通りができ、こちらが裏道になったとたん商店街がさびれた。
しかし歩いてみると、裏道には親しみや、ぬくもりが感じられるよさもある。それにいつの間にか半分以上の家が、小奇麗な3階4階建てのビルに変わっていた。
東京のキリスト教会には遠くから見える大教会は少ない。バス通りの裏道の横丁のようなところに、ちんまりと小奇麗な教会が看板を出している。自転車で走っていて「おや、こんな所に」と驚くことがある。案外、親しみ深くぬくもりのある活動をしているのかも。
大通りだろうと裏道だろうと教会は教会だ。礼拝があり、聖書の学びがあり、交わりがあり、伝道があり、奉仕がああれば、会堂のあるなし、その大小を問わずりっぱな教会だ。
「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ12/32)