顔を研ぐ

ある時「イエス」の映画試写会にでかけた。映写時間の入れ替えで、映画館の階段上から降りてくる人波があった。ほぼ教会関係の方々、それも今観た映画に感動された顔だ。わたしは少し前、JR駅の階段を降りてくる群衆の顔を思い浮かべ、違うなと感じた。
ふだん街では感じないが、グループとして見ると顔の違いがあるのかもしれない。「金、かね、カネ」のホリエモンは「カネづら」に、研究者はやはり「学者顔」になる。体育会系は「スポーツマン顔」だし、陽に焼けた「農夫顔」もある。
とすればクリスチャンの顔もあるはずだ。映画試写会から降りてくる人々に見られたあの顔だ。どこか違う。カネと無縁の、山形・独立学園の教師たちのあの顔だ。
それは、心の深いところで、赦された安心と喜びが、内面からにじみ出た柔和な顔だ。思い出せば、あの方、この方にその面影を見る。
その信仰、その信条、その目指すものが、顔さえ変えるとは、うれしく恐ろしいことだ。
「鉄は鉄を研ぐ。そのように人はその友の顔を研ぐ」(箴言27・17)