東京大空襲 そして一年

きょうは3月10日。この日はむかしの陸軍記念日。1905年日露戦争で大山元帥が奉天(今の瀋陽)入城の日だ。海軍記念日は東郷大将の日本海海戦勝利の5月27日。40年後の1945年3月10日に米軍が東京を大空襲したとき、わたしは陸軍記念日をねらったなと思った。
当時、四国の兵営でわたしの左に寝ていた戦友・伊東猛夫君は、東京大空襲を知り、すぐ請願休暇を取って東京へ帰った。彼は船舶幹部候補生隊に入隊のさい「崇拝する人物」に敵国の「リンカーン」を書き、わたしは「キリスト」と書いて上官にしぼられた仲だ。
四国への帰途わたしの実家で一泊。やっと帰営した彼は「見渡すかぎりの焼け野原」「父も母も妹も死んだ」「隅田川の東の本所区で残った蔵は三つだけ」「米軍は市民が逃げられぬように周りから焼夷弾を落とし無差別爆撃をした」「もう日本は負ける」「海の上の船舶隊はいやだ。這ってでも生き延びる」と、鉄道連隊に転属を願い出て部隊を去った。
つぎの1946年3月10日。一橋大学に復学した彼から「そして一年」と葉書が届いた。ただの一行で、たった五文字で、万感胸に迫る、忘れられぬことばがある。「そして61年」。
「万軍の主の燃える怒りによって地は焼かれ、民は火の燃え草のようになり」(イザヤ9・18)