受身のことば

葬儀も終わり火葬がすみ、長男は母の遺骨を抱いて大きなハイヤーの運転手の横に座った。わたしは後部座席のまんなか。右に妻を亡くした父親。左に長男の嫁。
その車中で嫁さんが「お父さま。これで安心でございますね。お母さまを主さまにお預けしたのですから」と言った。その時だ。右から大声がとどろいた。「なにを言うか!お預けしたのではない!お預かりいただいたのだ」と涙声。
とっさのとき、人は本音が出る。その父親はとっさに「受身のことば」を使った。父親の信仰の基本はキリストが中心。だから言葉が受身になる。美容師のMさんは、客の女性が「備えられたの」「恵まれて」「与えられた」と、自然に出る受身のことばを聞きキリスト信仰を求め始めた。
「愛する兄弟たちよ」とパウロは手紙に書かない。「主に愛されている兄弟たちよ」と書く(第1テサロニケ1・4、第2テサロニケ2・13)。自分が主をつかんでいるのではない。主が自分をつかんでいられる。これがわかった人はすっと受身のことばが出る。
「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよくご存知です」(ヨハネ21・17)