集会のあと

聖書の家庭集会は大切だが、集会が終わったあとも大事だ。
わたしの話が終わったとたん世間話が始まる集会がある。だれそれが病気だ、もうすぐ筍、子どもが入学と、せっかく話した聖書はそっちのけで延々とつづく。食べて話して笑いすぎて、帰宅後きょうの聖書はどこだったか思い出せなかったという話も聞いた。
一方、「ひとつお聞きしていいですか」と、今話した聖書について質問が始まる集会がある。これはうれしい。田舎の和室の集会では、「ちょいと失礼」と、ごろんと横になり質問する方もいる。うれしい姿。熱心に聴いて疲れたからだ。そういう時は、質問に答えるうち、別の方が自分の体験を語り、わたしの聖書の話よりずっとすばらしい結論が生まれることがままある。
伝道者は、集会のあとの世間話も、日常生活に根ざしているから無視できないが、それのみに流れそうな空気のさいは、今話した聖書とかみ合わせるようにしたいもの。また出席者もそう心得たい。
集会は真面目すぎてもいけないが、砕けすぎはもっと悪い。出席者が互いの信仰で慰められ、教えられ、励まされる、あと味のいい集会にしたい。
「互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(ローマ1・12)