桜散る いとこの死

きのうの朝、東京駅の京葉線は、東京ディズニーランドを目指す子どもづれの家族でいっぱい。しかし葬儀式場へ急ぐわたしは、つぎの電車を待つ余裕もなく発車直前の車両に乗り込む。ふとわたしにさわる人がいる。見ると女性がわたしに席をゆずってくれていた。白髪に杖をついていたせいか。感謝をのべて座る。舞浜駅に着くと、さっと乗客が消えた。
稲毛海岸で降りて式場へ急ぐ。もう仏教の葬儀は始まり僧侶が読経しながら木魚を叩いている。パーキンソン病で3月29日に亡くなったいとこは、女子大へ通っていたころ今のわたしの家に下宿していた。レポートの宿題を泣きつかれて書いたこともある。明るい人だったのに表情がなくなり、病院をたずねても会話は難しかった。
こうしてつぎつぎ、こんないい人がと思う方々が、キリストを信じないで死んでゆく。しかし仏教を心から信じているわけでもない。またキリスト教と無縁でもなかった。このブログの3月9日の「死者への福音」のように、主に祈るばかりだ。
夕方の帰り道、近くのルーテル教会の大樹の桜花が雪のように道に散りしいていた。
「記憶せよ、わたしの命は息にすぎないことを」(ヨブ7・7)