メールと手書き

ワンセグ」とかが始まって、それでなくても「携帯オタク」の若者が、朝から晩までピッ、ピッ、ピッ。官庁でも会社でも、机のパソコンにメールで仕事の指示か来て、その報告も、上司のチェックも、顔を合わさずにすむ時代だ。
たしかにメールは早くて、安くて、簡潔だが、81歳の老人には電報のやり取りみたいで味気ない。メールだと漢字も器械でさっと出て、漢字力は低下し、文章力も落ちる。いや情感力が衰える。ピッ、ピッの携帯文化は、この国の深いところを掘り崩していないか。
つまりメールには限界がある。メールは急ぎの通信には向くが、心を伝える手段ではない。だから急用にはメールを、気持ちを伝える場合はせめて手書きの便りをと、使い分けてはどうか。「たかが手書き」だが、「されど手書き」だ。
祈りだってそうだ。鋭く短く祈る場合と、心ゆくまで気持ちを申し上げる場合とある。昨春とこの春、高校受験の二人の孫に、試験が始まるとき、短く「主よ、お助けください」と祈れと教えた。孫らは祈り、希望の高校に合格。一方ゆっくり祈ることも大事だ。
「くどくどと祈るな」(マタイ6・7)。「イエスは夜を徹して神に祈られた」(ルカ6・12)