103歳 一瞬、一瞬に生きる

朝、父の歌集から短歌を一首抜き出して半紙に書き、居間のソファーで寝ている母に見せる。「春泥のロンドンのまち赤色の二階のバスに妻乗りたしといふ」。「覚えている?」「覚えている」。古い記憶は残るのか。
だいぶ目も弱り、前ほどすらすら読めない。このひと月で体力が落ちた。活字を読み、テレビを見る気力もない。「お母さん、足も100年も使われたら、もう疲れたといっている。耳も目も100年お仕えして、くたびれたらしいよ」「そうやな」。
「天国へ行った夢を見た」「だれがいられた」「名前は忘れたが大勢いらして、早くいらっしゃいと言われた」「すごい夢」「鼻の下のヒゲを宣隆さん(妹の主人)に剃ってもろた。お棺に入ると、顔の廻りにお花を入れてくださる。ヒゲが生えてるとおかしい」。やはり103歳でも女性。死後の顔を気にしている。
「座りたい」というので腰かけの姿勢にする。すぐ「トイレ」というので手取り足取り車椅子に乗せる。すると「なぜトイレにきたの」。またソファーへ。こんどは「ねむたい」。昨夜はねむれず夜中に何度もトイへレ。もちろん妹がそのたび介護。
母は、一瞬、一瞬に生きているのだ。ただ日曜礼拝のときはしゃきっとしている不思議。
「あなたの父母を敬え」(出エジプト20・12)。「母が年老いても侮ってはならない」(箴言23・22)