たけのこ掘り

朝、関西から筍をいただいた。ずっしり重い若い筍が、まるで十二単(ひとえ)を羽織っているかのように竹皮をかさね、その先端にヒゲを伸ばしている。
岡山県の農家へよく聖書の話に出かけた。筍の出るころ裏山で掘らせていただいた。
そのとき「わずかに顔を出した筍の、ヒゲの傾きに注意して」と言われた。親竹から地下に伸びた根ぶしが、若筍につながり、ヒゲは親竹のほうに傾くから、傾いたがわに鍬を打ち込むと、根が切れてほっこり掘れるという。
なるほどと、枯れ葉を掻いてヒゲを出し、周りの土を少し掘り、その傾きを見定めて鍬を打つ。山の斜面で素人でも上手に筍が掘れた。
面白い話だ。うちの娘や息子がアメリカに留学していたころ、子どもは親からの送金だけが頼りだ。親竹から根ぶしを通して養分が筍に送られるのと同じだ。キリストとわたしたちとの間も同じでないか。信仰の養分は主から来る。だから主のほうに、いつも顔をむけるのだ。
筍が節をつくって成長し、太く大きくなると、こんどは自分の周りに根を張って筍を育てる。節は人生の苦難だ。苦難を乗り越えると、またすっと背丈が伸びる。キリスト信者の姿は竹だ。「竹に雪折れなし」の、しなやかな信仰になりたいもの。夜、柔らかい筍に舌鼓。
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5・3,4)