尾瀬の「秘境」は「人里」

わたしの友人に山歩きが好きな男がいる。べつに高い山へ登ったという話はきかない。東北の山里に生まれ育ったせいで、ただ山中をさまよい歩くのが好きらしい。
奥羽の山地を越え、会津と越後の境の峰々を野宿しながら歩き、まったく人に会わずに日が暮れることもよくあると聞いた。深山の渓流の流れのそばの岩に腰をおろし、深い森の声に耳をすまして満足するのだ。
そして福島・新潟・群馬県境の尾瀬沼まで降りて来ると「ああ里へ出た」と感じるという。
そのころ尾瀬は秘境といわれ、「はるかなる尾瀬」と歌われた。しかし奥山歩きの彼にとっては、都会人の「秘境」は「人里」なのだ。
これは何を意味するのか。ある者が「すごい」と感じることを、ある人は「すごい」とは思わない。もっと「すごい」ことを知っているからだ。イエスの奇跡にわたしたちは「すごい」と驚き疑うが、天から降りたイエスにとって驚くことではなかったはずだ。
このことは狭い殻に閉じこもる危険を教える。信仰の世界でも、自分の教会の殻にこもって狭い窓から見るのは危ない。
「耳を傾け、神の驚くべきみわざについて、よく考えよ」(ヨブ37・14)