クルーセードぎらい

一時、日本の教会は「クルーセード」ばやりだった。クルーセードは「大伝道集会」の別名だ。米国から有名なテレビ伝道者が続々来日し、日本の大衆伝道者といわれる牧師たちと、大会場に何千人何万人の聴衆を集め、いっきに日本がキリスト教化されるような幻想をいだかせた。伝道だのに「総動員」といういやなことばも使ったはず。
しかしアメリカでテレビ伝道者のスキャンダルが報じられ、日本のテレビから米国人牧師の姿は消えた。そのころから日本でもクルセードという掛け声は聞かない。あのクルーセード騒ぎはいったいなんだったのか。教会の勢いが伸びた話は聞かない。
第一、「クルーセード」(十字軍)ということばが嫌いだ。自分は正しく相手は悪者という、異教徒狩りの聖戦意識は鼻持ちならない。こういうことばを、キリストの福音伝道に使う人は、十字軍の歴史を読んだことがあるのだろうか。キリスト教2000年の歴史で、もっとも無意味で愚かで悲惨な、虐殺、略奪、婦女暴行と、内部対立の恥の刻印を残したのが十字軍・クルーセードでなかったか。
1096年から200年。7度にわたる十字軍の歴史は「興奮と幻滅」の歴史だ。日本の教会のクルーセードも「興奮と幻滅」の一こまに終わった。
「穏やかな心は身の命である。しかし興奮は骨を腐らせる」(箴言14・30)