韓国と日本、似ていて違う

韓国では王朝が変わると宗教も文化もがらりと変わる。高麗時代(九一八−一三九二)は仏教の国。つぎの李氏朝鮮(一三九三−一九一〇)は儒教の国。仏教は山の上に追われ、城壁のある町には僧侶の出入りを禁じた。陶器でも高麗時代は青磁一色、それが李朝では白磁に一変する。もともと韓国では、日本の植民地時代に抵抗勢力としてキリスト教が強かったが、解放後いっきに教会が発展した。高麗仏教、李朝儒教、つぎはキリスト教だ。
しかしそのすべてを貫いて、はげしいシャーマニズムが韓国人の体質にある。それはキリスト教リバイバル・復興会にも、北朝鮮共産主義の熱狂にもみられる。日本では青森県の恐山などにあるが韓国とは質量がちがう。
日本の歴史も節目、節目で激変するが、根こそぎ変わるのは韓国だ。韓国で政権がかわれば、政府高官もざっと替わる。これは米国に似ている。日本からの解放後、韓国では公文書も横書きハングル文字に統一した。新聞でも漢字の使用は限られている。
日本でも敗戦後、ローマ字運動があったが、五〇年たっても漢字かなまじり、カタカナでの外来語表記がふつうだ。横書きもふえたが、新聞、雑誌、小説は縦書きが主流だ。つまり横書きが便利なときは横にし、読みなれた縦書きも断然のこす。
あるとき、韓国から来られた友人と名古屋の地下鉄に乗ったさい、「がんばれ!中日!」の広告があった。友人は「この『がんばる』が韓国語にないのです」という。驚いて「では、どういうの」と聞くと、「イギョラ!(勝て!)かな」という答え。また韓国には「むっとする」とか、感情を押し殺した表現がない。いい意味で気持ちをあけっぴろげるのが韓国だ。感心するのは激しく口論した相手と、そのあとにこやかに話しあう姿だ。日本人は「むっとして」口もきかない。
日本人は「革命型」でなく「折衷型」だ。大江健三郎のいう「あいまいな日本」なのだ。韓国と日本、似ていて違う。キリスト教会も、韓国と日本で信仰の基本は同じだが、表現は違うようにおもわれる。それでいいのだ、韓国と日本。「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12・10)