メーデーの思い出

若いころは、5月1日のメーデーによく出かけた。
初めての1950年のメーデー皇居前広場だった。勤め先が当時三宅坂にあったので、歩いてすぐ。時代は革新、みな解放感にあふれていた。出かけるとき老守衛が「むかしは、あっしら学問のねえもんがメーデーに行きやしたが、いい時代だ」と喜んだ。
1952年の「血のメーデー」で、会場は皇居前から明治神宮外苑に移った。「主催者発表・50万人、警察発表・30万人」といった新聞記事が、毎年メーデー行進の航空写真とともに夕刊を飾った。
会場から5方向に分かれて行進する。ある年、新宿まで歩き「流れ解散」して、友人の勝原文夫君と映画を見て出てくると、まだ行進がつづいていた。
わたしから上の年代の日本男性は、だれしも「軍隊」と「組合」という二つの組織の中をいやでもくぐらされた。わたしでも国立国会図書館職員組合の執行委員や、副委員長をつとめた。聖書研究会のおもだった会員は、たいてい組合の執行委員になり、あの石原義盛君も組合役員だった。この春退職した富田美樹子さんも婦人部長。
なにしろ聖書研究会の会場と、職員組合事務室とが同じ時期も長かった。「聖書」と「赤旗」が同居して違和感がなかった。組合の専従書記が聖書の話を部屋のすみで、聞くともなしに聞いている。そんな時代だ。今は組合員も減り、メーデーさえぱっとしない。
「働く者が報酬を受けるのは当然である」(第1テモテ5・18)