丁寧にしか書けない

「いつも丁寧なお便りをいただき恐縮です」と言うと、「いや丁寧にしか書けないのです」との男性の返事に衝撃を受けた。昨秋ハンセン病療養所をたずねたときだ。右手の甲にゴムひもを巻き、残った三本の指にボールペンを差し込み、ゆっくり丁寧に書かれるのだ。長い付き合いだのに「丁寧にしか書けぬ」とは「知らなかった」。
その療養所には40年前から時々訪問する。最初はわたしが編集していたキリスト教雑誌の女性読者との面会だった。
療養所で集会して一泊、翌日その方の家を訪ねた。「藤尾です!」と言うと「ちょっとお待ちください」の声がした。「ちょっと」とはふつう数分だ。それがかなり長くかかった。分かったのは、指の不自由な方の着物はボタンでなくホックで、それを一つ一つ両手で、プチンプチンと止めるのだ。「知らなかった」。
あるとき療養所内の畳敷きの教会で礼拝の話をした。出席者のうち30人ほどが残り会食。長く机が寄せられ食べ物がならぶ。両側からみなさんが座った。端のわたしのすぐ近くの方が曲がった両手でお茶碗を持ち口にされた。唇の不自由な方で茶碗の縁を歯に当てて飲んでいられる。「知らなかった」。
わたしたちが何気なく字を書く。ボタンをとめる。お茶を飲む。それをこのように一つ一つ丁寧にせざるをえない方々がいる。それを思えば感謝できないことはなくなる。
「極度の忍苦にも、艱難にも、危機にも、、、神のしもべとして自分をあらわしている」(第2コリント6・4)