革新とキリスト教

日本共産党社民党に元気がない。退潮気味だ。一方キリスト教の教勢もぱっとしない。見るところ、この「革新」と「キリスト教」は日本の歴史で不思議な一致がある。
日本のキリスト教が高揚した時期は3回。すべて日本が世界に開かれた革新の時代だ。
第1回は、1549年ザビエル来航以来の安土桃山時代。切支丹大名から農民まで70万人が入信した。第2回は、1868年の明治維新キリスト教が解禁。80年代の鹿鳴館時代には、毎年、倍、倍の勢いでヤソ教徒がふえた。第3回は、1945年の敗戦後、時代は革新。衆議院議長松岡駒吉。総理は片山哲最高裁長官は田中耕太郎。東大総長は南原、矢内原。ずらりと骨太のクリスチャンが並んだ。
ところが、これらはことごとく革新から保守へ時代が転じるにつれ退潮する。徳川の迫害。明治の国家主義の勃興。そして昭和・平成の日本的なものへの回帰。そのときキリスト教も影響をうけるとすれば、福音の中に社会革新の芽があるに違いない。たしかにある。福音は個人の救いのみでなく、地の塩として社会を内側からあらためる力を持つ。マックス・ヴェーバーの「資本主義の精神」を持ち出すまでもなく、福音を信じる人々により社会の革新が世界で進んだ。さて日本のキリスト教の革新力はどう考えるべきか。
「イエスはなおも先へ進み行かれる様子であった」(ルカ24・28)