見なれた 聞きなれた

田舎から東京に来て、最初とまどうのは山がないこと。筑波山や富士山もはるかに見える。しかし山がないと田舎者は落ち着かない。平凡な山でも「見なれた」山は四季の慰め、方角を教える大事な宝。
阪神・淡路大震災後、東京に一時避難された方が、「見なれた」六甲山が近くにないのが淋しく、まだ復興途中の神戸へ帰られた。
ある孝行息子が、母の死後父のため古い家を改築した。そのあと父がうつ状態になり口をきかない。精神科医が話を聞くと「音がしない」とぽつりと言った。古い家で、毎日がたぴし開けていた雨戸の音。お手洗いの扉がぎいーっと閉まる「聞きなれた」音だ。息子は医師と相談して、父が「見なれ」母が「使いなれた」戸棚類を、納屋から取り出し父の部屋に据えた。やがてうつも癒えた。
幼児がねむるさい、枕や布や毛布のはしをくわえ、それがないとねむれぬ習慣がある。汚いからと捨てたらたいへん。「使いなれた」幼児の平凡な宝物だ。
「見なれた」「聞きなれた」「使いなれた」ものは、日常の平凡なものばかり。その平凡の中に宝がある。イエスはみなが「見なれ、聞きなれた」野の花、空の鳥を指さして珠玉のことばを語った。
「空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈りいれもしない。だが天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ6・26)