愛国心教育

26日に始まった衆院特別委員会で「教育基本法」改正法案が議論され、その中心に「愛国心教育」がある。日本には愛国心教育が足りないという考えだ。
その「愛国」ということばにわたしは生理的な嫌悪感を持つ。1930年代「愛国心教育」の真っただなかで育ったわたしが、日本陸軍に入隊前の1944年、日本のため、天皇のためには死ねないで苦しんだ。「愛国心教育」はわたしを愛国ぎらい、天皇ぎらいにした。だれのためならと考え、家族のためなら死ねると思った。
そうだ人は愛するもののためには命もすてる。愛するのは、その相手に値打ちがあるからだ。愛はそのほうに心がすべってゆく。引きつけられる。人は「ねうちのあるもの」を喜ぶ。美しい花を見て花を愛し、故郷の山河を見てすばらしいと思う。
「わたしを愛して」という前に、その人自身が輝いていることが大事だ。「日本を愛して」と教育する前に、日本自身が愛する値打ちのある国でなければならない。
ひとがイエスを信じ、愛し、イエスのためならいのちも惜しまないのは、イエスの存在そのものに惹きつけられるからだ。大事なのは日本自身の充実だ。値打ちだ。
「愛がそれを望むまでは、愛を呼びさまさない」(雅歌8・4)