スーパーと老舗

四日に一度は自転車で近所のスーパーへ行きます。食料や日用品の買い出しは、わたしの役目です。スーパーは、大量生産で品数は多く、廉価販売の売り場は広くて安いのです。
このスーパーの対極に老舗(しにせ)があります。なかには表通りの大店もありますが、多くは店も小さく、目立たない裏通りにちょこんと暖簾を出して、高品質の小量生産をつづけています。創業が一〇〇年、二〇〇年を越すという老舗が、それこそ日本全国にたくさんあるのです。そこでは、手間ひまかけた匠のわざをつづけ、自慢の手仕事の職人業の製品は値段が高くなります。
韓国では、信徒が数万人のスーパーチャーチ(巨大教会)がたくさんあります。それに引きかえ、日本の教会は、三〇〇人も礼拝に集まれば大教会です。五〇人、三〇人の教会もそれこそざらです。しかし、教会員の少ないことを恥じることは少しもありません。小さくとも、喜びがそこにこもっていれば、すごい教会です。
それに韓国と日本では歴史の背景が違うのです。アジアでキリスト教の伝道が「量として」成功したのは、フィリピンと韓国だけです。大きな宗教がなかったからです。フィリピンは、スペインに支配されてカトリックが入る前は、アミニズム(精霊信仰)の国でした。韓国は李朝五〇〇年、儒教が支配して仏教は山の上に押し上げられていました。そこへキリスト教が入ったのです。
たしかにスーパーマーケットにしろ、スーパーチャーチにしろ、見るからにすばらしく気持ちよいのです。人は大きなものを喜び、感心し、自慢します。
しかしイエスさまの目はちがいます。巨大な神殿を見ては、その崩れ去る日をみつめ、五〇〇〇人の大群衆が給食のパンにたまげていると、決心カードも書かさずに解散させるお方です。
だから日本の教会は、イエスさまにならって、老舗のような教会を目指せばいいのです。「なんと聖書は深く面白いか」と、「キリストのすばらしさ」に驚く小さな教会が、無数にあって、信仰の交わりの深いのがいいのです。 日本の小教会は、それにいちばん近いところにいるのです。「みなの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(ルカ九・四八)