「匿名」と「おなら」

「あなた、おならしたでしょう」。50年も連れそっていると、わたしのわずかなしぐさで家内は悟るらしい。「無味無臭無音だ」「いやね」。
電車の中で良いにおいがただよう。思わずだれの香りかと周りを見まわす。しかし満員電車のくさいおならはたまらない。みな、わたしじゃないと知らぬ顔。
匿名で原稿を書くときは、その文章が満員電車のおならでないかとつねに反省が必要だ。いつでも良い香りを放つ自信があれば匿名でよい。しかし「A.A生」「M.M生」と匿名で書く場合、あとで責任を取らないおそれとずるさが残る。
雑誌「世界」に連載され、岩波新書にまとめられた「韓国からの通信」は、朴正熙独裁政権下のなまなましい実情を世界の良心に訴えた。筆者は「T.K生」。彼はいのちがけでペンを執った。
ある訪韓のさい金浦空港で出迎えの朴魯洙さんに、わたしがコートに忍ばせた「韓国からの通信」を、ちらっと見せると、ぱっとつかんでカバンに隠した。韓国では危険文書だった。「T.K生」はのち「池明観」教授とわかった。これは良心的匿名だ。官庁や企業の内部告発も良心的匿名といえる。
だから、わたしは匿名では書かない。書いたものに責任を負うつもりだから。
「隠れているもので、あらわにならないものはなく」(マルコ4・22)