明日のパンを今日

元日から5月末まで151回、毎日500字、休まずにこのブログを書いた。家内が「あす書くことあるの」と心配する。「マナが降る」と答える。
「主の祈り」に「必要な糧を今日与えて」とある(新共同訳)。ちなみに口語訳は「日ごとの」。新改訳も「日ごとの」。文語訳は「日用の」。塚本訳は「その日の」。すべて「our daily bread」「Unser tagliches Brot」だ。
しかしこの「必要な」「日ごと」の原語(エピウシオン)は、「次ぎの日」の意味。使徒言行録7章26節、23章11節は同じ言葉を「次ぎの日」「その夜」(夜から翌日になる)と翻訳。ではなぜ、学者が「次ぎの日」を「その日」や「日ごと」としたのか。主の祈りのあとの、イエスの「あす(アウリオン)のことを思いわずらうな」の言葉と符節をあわすためだと思う。
だがイエスは「思いわずらうな」と言われたが、「用意するな」とは言われない。学生はあすの試験に今日備え、牧師はあすの説教を今日も準備する。
わたしにとり、明朝掲載することを、今日いただかなくては困るのだ。「必要な」とか「日ごと」などと、悠長な、のんきなことでは毎日書けない。
ドイツの聖書学者アドルフ・シュラッターは「明日のために必要なパンを、今日わたしたちに」と訳した。これでわたしもほっとする。(新約聖書講解・新教出版社刊)
「あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました」(エレミヤ15・16)