伝道者もどき

酒枝義旗先生は感激家で、ある方が会社定年後、神学校で学び牧師になったのを応援しようと、自分の集会を解散して合流。やむなく町田さんやわたしも従った。
しかしその牧師は、人の書いたものを紹介する話が多い。「たとい下手でも自分の胸から出た話をすべきだ」とわたしが言ったことが牧師の耳に入り、「そんな人は教会から出て行ってくれ」と日曜説教でいわれた。わたしは足のちりを払って出た。
酒枝先生に話すと「聖書の話は、若いときから話しつけていないとできません。まあ、もう少し見守りましょう」と、おだやか。
わたしは教会を出て、一時、政池仁先生の集会へ出席。政池先生は「定年になって伝道しようというのは、人生の一番いいところは自分で食べて、残飯を差し出すようなもの、祝されるわけがない」と、きっぱり。
いま振り返ると、二人の先生とも内容が深い。伝統ある教会では、若い牧師を信者が守り育てる気風がある。酒枝先生は定年牧師についてそう考えられた。
政池先生の鋭い指摘も正しい。「安易な献身、信者の迷惑」ということばがある。「伝道者」と「伝道者もどき」は違う。その違いは、生活面で一度、清水の舞台からイエスのみ手の中へ飛ぶ、息をのむ決心をしたかどうかだ。
「神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」(第1コリント12・28)