発想の転換 手で掃く

彫刻で木を削るとどうしても木屑が出る。わが家には工房などないから、大きな桜材を食卓に乗せてトントンやる。その木屑が床に飛び散る。両手でひと所にあつめ、手の平でぐっと押す。手のしめりもあり10回できれいになる。パンパンと手をたたいて終わり。
じつは日本陸軍に入りたて「掃除にかかれ!」と命令が飛ぶ。すばやい兵隊がさっと箒をにぎるから、わたしは立ちすくむ。「何をしている!」「箒がありません」「手で掃け!」。やってみると、手はけっこう隅々まで細かいごみが取れる。今もその調子だ。
発想を転換すればいいのだ。箒がなければ掃けない、掃除機がなければきれいにならないと思う。しかし「手」でもできる。あと石鹸で洗えばいい。
石油危機でトイレットペーパー騒ぎが日本であった。水で用を足していたインドネシア人は笑った。アメリカ人だって、むかしはトウモロコシの食べかすを使っていた。
エス発想の転換はすごい。信仰から遠い者が近い。近いと思う者が遠い。一番低い者が高い。高い者が低い。小が大で、大が小。先頭がびりで、びりが先頭だ。
だから、世界中で今もイエスを信じるものがあとをたたない。それは「ダメなものはダメ」という常識をイエスがひっくり返して、そのまま救う道を開かれたからだ。
「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8・1)