そこに居るのに無視

shirasagikara2006-06-10

わが家の玄関の壁に父の写真をかけている。楕円形でタテ90㌢、ヨコ64㌢もある。
父の元気なころ「もしお父さんの葬儀となると、教会関係、茶道関係の方々がたくさん見えるから、青山斎場を借りるしかない。そのさい小さな写真ではアカン」と、わたしが言うと、気の早い父は写真館に行ってこれを用意した。
しかしほんとうの葬儀のさいは、教会堂で教会関係・茶道関係とふつかに分けて葬儀をしたのでこの大きな写真は使わなかった。
そのあと置き場所がなく、もう10年あまり玄関にかけている。毎日20回はその写真の前を通るが、気にとめて眺めたことも、ちらっと見ることも少ない。父を忘れたわけでない。尊敬しないわけでもない。しかしほとんど無視してその前を歩いている。
そこに居るのに気づかれず、ほとんど無視される存在がある。会社でいえば窓際族。社会では在日韓国・朝鮮人たち。最近では外国人労働者。その存在は承知しながら、関係なしにすごしている。申しわけないことだ。
エスは、38年も病人だった男の前に立ち「良くなりたいか」とたずね、おとしめられた徴税人ザアカイに「今夜きみの家に泊まらねばならぬ」と声をかけた。これまで無視された存在の二人は、どれほどうれしかったか。イエスの目の深さ、暖かさ。
「人の子(イエス)は、失われたものを捜して救うために来た」(ルカ19・10)