靴の半張りはスルメ

ちかごろものを修繕して使うことが少なくなった。靴も、靴下も、時計も、テレビも、自動車さえ修繕しないで買い替える日本になって久しい。
むかしは靴の裏に「半張り」といって、前半分に牛皮を靴の形に合わせて小釘で貼り、かかとも厚底をうちつけた。街の靴磨きは半張り屋でもあった。
その半張りでは思い出がある。中野の下宿屋に高知の町田守正さんと住んだ1948年ころ、土佐の学生がたくさん居た。その一人が新宿の靴磨き屋で半張りをして帰宅。ふと見ると猫が半張りを食べている。なんと半張りはスルメだった。
半張り屋に弁償させようと、下宿の学生5、6名が出かけた。靴磨き屋のいる三越がわに3人、反対の伊勢丹がわにふたりが見張った。「なめたらいかんぜよ!おっちゃん、ぜに返しな」。驚いた靴磨きは観念して金を返却。牛皮が高価な時代だ。
しかし「修繕」の技術は、時計にしろ、洋服にしろ、自動車にしろ、ものを細かく観察する力を養う。それが「改造」につながり、「創造」を生むのでないか。古いものを簡単に捨て、新しいものとまるごと入れ換える社会は、こまやかな感性を失わないか。
ペトロは「網を繕っていた」とき、イエスに「われに従え」と声をかけられた。こまかい網の目を一つひとつ見つめていたときだ。
「エリヤはこわれている主の祭壇を繕った」(列王上18・30)