のみを研ぐ、信仰を研ぐ

shirasagikara2006-06-15

十二使徒群像」のため時どきのみを研ぐ。広刃、細刃、丸のみ。それにさまざまな彫刻刀もある。長男が器用な男で、キッチンの流し台にぴったりはまる、差し渡しの砥石台を作ってくれた。それに砥石を乗せて研ぐ。
彫刻の素人のわたしは、朝日カルチュアに1年ほど通っただけだから、正式ののみの研ぎ方を知らない。生徒仲間のやり方を見よう見まねでやるだけだ。むかし美術学校の彫刻科では、最初に彫刻基本の研ぎばかりやらせると聞いた。
あるとき細長いのみが1本折れた。荒砥で削り、また使えるようになるまで2000回は研いだ。だいたい木はうまく削れない。わたしは「100回、100回」と唱えながら削る。100回同じところに根気よく刀を入れると何とか形ができる。忍耐心を養ってくれ、それに面白い。彫りそこなったところから、思いもしない形ができてゆく。
木を彫るのに、のみが錆びていては話にならない。使いなれたのみは錆びない。日本のことわざにも「使う鍬は光る」とある。使わないと切れ味も悪くなる。
キリスト信仰もそうではないか。毎日信仰を使っていると錆びない。信仰を使うことが研ぐことになる。信仰を使うとは、信仰の目でまわりを見回し、考え、動くことだ。朝おきて「ああ感謝」と天を仰ぐのも、信仰の使い始めだ。
「鉄は鉄でもって研磨される。人はその友によって研磨される」(箴言27・17)