ダヴィンチ・コード・撃たれ強い福音

映画「ダヴィンチ・コード」を観た。原作の足元にも及ばぬ作品。ただイメージは補える。
ダン・ブラウンの小説は、読みすすむ数分ごとに1回、ハラハラドキドキする鮮やかな展開。見事な知的謎解き。西欧の奥深い叡智が織りなす文化の重層を縫いたどる筋書きだ。
小説の主舞台はパリ、ロンドン。しかも、たった三日の出来事。十字軍・テンプル騎士団の流れを汲むシオン修道会と、カトリック超保守派オプス・ディとの、聖杯をめぐる暗闘の物語り。けっきょく聖杯はなく、イエスの末裔の女性が聖杯だったとの結論。
シオン修道会は、マグダラのマリアがイエスと結婚した末裔を守るのが使命で、その修道会歴代総長に、ダヴィンチや、ニュートンユゴーらが歴任したとされる文書がパリ国立図書館にあるが、これら修道会記録はピエール・プアンタールの偽造だった。
さて聖書ほどタテヨコ十文字に、あまたの学者に研究され尽くされた書物はない。どんなとっぴな意見がでても、すべて、もうだれかが主張している。福音は撃たれ強いのだ。ソ連の反宗教活動のリーダーが「キリスト教は釘だ。打てば打つほど深く入る」と嘆いた。
それにしても聖杯とか、聖骸布など、見えるものに執着するカトリックのおろかしさ。ルーテルの宗教改革が必然だったわけだ。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」(2コリント4・18)