フィリピン戦線の中村光喜さん

1941年12月、フィリピンを日本軍が攻撃。一番頑強に抵抗したのはマニラ湾のコレヒドール要塞の米軍だ。降伏したのは翌年5月6日。
中村光喜さんはその攻撃に加わった。ある日決死隊が編成され、隊長が「志願する者は一歩前へ!」。中村さんは前へ出た。「貴様はどうして志願するか」「おやじがお前は死んで来いと申しました」。ところが決死隊員でなく、志願しなかった兵士たちが砲撃でほとんど戦死。
中村さんはその後、負傷してマニラの野戦病院へ。そこは負傷した日本兵であふれ、炎天下の病院の敷地に寝かされた。食べ物を看護師が一人ひとりの胸に置いてゆく。
中村さんは、その食べ物を胸に受け、ひとり感謝の祈りをした。それを見たフィリピン人看護師が「あなたはクリスチャンか」と聞いた。中村さんは慶応ボーイで英語ができた。その看護師はぱっと建物の中へ入り、担架で中村さんを院内へ運んだ。しかも英語小型版「ヨハネ福音書」をくれたという。
中村さんは、その「ヨハネ福音書」を大事に持ち、わたしに見せながら「親(五十嵐健治・白洋舎創立者)が死ねと言ったため生かされ、食前の祈りで炎天下に死なずにすんだ。主様のお計らいは不思議」と話された。
「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(ローマ14・8)