カイン「と」、アベル「と」

創世記4章に、農夫カインと、羊飼いアベルの話がある。ふたりが神さまに献げものをする。カインは「土の実り」を、アベルは「羊の肥えた初子」を。ところが主はアベル「と」その献げものに目を留め、カイン「と」その献げものに目を留めない。
羊飼いは、草や水のあるところへ羊を連れ出し獣から守る。そしてふと見ると、羊が子をはらむ。またしても羊がふえる。自分はただ歩いただけ。神さまのお力だと感激。
農民が、品評会に自作の農産物を出品して、にこにこ顔で「ごらんくださいこの品を」と見せている。粒粒辛苦というが、ひと粒ひと粒に汗水流した苦労がこもる。
アベル「の」献げものではない。<アベル「と」アベル「の」献げもの>だ。アベル「と」というのは、アベルの存在そのものだ。ふと気づくと羊がふえている。すべて感謝と「恥ずかしげに」羊を主の前に置いた。この「主を喜ぶ」アベルの態度を主は見られた。
カイン「の」献げものではない。<カイン「と」カイン「の」献げもの>だ。カインは「神さまどうです、わたしの労苦の作物です」と「自慢げに」献げものをさしだした。
主は何を捧げたかでなく、どんな態度で捧げたかを見られる。今も同じだ。「と」の一字を見逃すな。
「神の求めるいけにえは、打ち砕かれ、悔いる心」(詩篇51・17)