「自分の作品」「主の作品」

兄のカインは「自慢げに」土の実りを献げた。弟アベルは「恥ずかしげに」肥えた初子を献げた。カインは「自分の作品」を差し出した。アベルは「主の作品」を持ってきた。
そのとき二人の態度が違った。カインは自信があった。粒粒辛苦の作品だ。アベルは喜んでいた。なにを喜んだか。主を喜んだ。主から受ける恵みより、主ご自身を喜んた。主はそのアベルの態度に注目された。カインに注目されないだけだのに、彼は激しく怒って顔を伏せた。
絵画の展覧会で、大きな壁に「総理大臣賞」の作品が輝く。みながその絵に注目する。だれよりも先に審査委員がその絵に注目し賞を決めた。ほかの作品がだめなのではない。注目作品がこれだ。しかしそこへ出品した人で、自信にあふれた人なら、自分のほうが「賞」にふさわしいと思うかもしれない。だが謙遜な人なら、わたしの作品など外して持って帰りたいと思う。
カインの自信が誇りを生んだ。誇りは傲慢となった。傲慢は自尊心を高めた。自尊心が壊れたとき妬みが燃えた。妬みは恨みとなった。うらみが殺人を犯し、そしてウソ。
あやまった自信はらせん状に罪を広げる。自分が注目されないだけで、人類最初の殺人、しかも兄弟殺しが起こった。聖書のすごさ。古くて新しい問題だ。
「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4・9)