「見方」をかえれば「味方」

久しぶりに庭の草むしりをした。山形・独立学園の枡本華子先生は「草引くや やさしい心になってゐし」と詠まれたが、わたしなどは戦闘心がわいて、敵に立ち向かうように、がむしゃらにむしり取る。
わたしが庭の草むしりをするのは、丹精こめて植えた草木は「味方」。雑草はそれを侵す「敵」と見るからだ。とくに地下茎を延ばすドクダミ、笹は始末が悪い。
岡崎の野草研究家の桐山義一さんは、川原の土手に傘をひろげると、だいたい10種類以上の草がその下に生え、しかも、その一つひとつに、れっきとした名前があって、十把ひとからげに「雑草」とよばれるものはないと話された。
たしかに雑草とみえるものにも、かれんな花をつけ、抜く手を止めさせる草もある。そのとき「敵」が「味方にかわる。「見方」をかえれば「味方」になるのだ。
それに、どんな小さい草にも、ぜんぶ名前があるのがいい。その名を呼んでイエスは「マルタ、マルタ」「ザアカイよ」「ヨハネの子シモン」と、救いの道を示される。
草深いベタニヤ村のマルタ、ガリラヤ湖の漁師シモン、おとしめられた徴税人ザアカイ。すべて雑草のような草だ。イエスは踏まれ、抜かれてあたり前の草の名を呼ぶ。そこに福音がある。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なものはただ一つだけである」(ルカ10・41)