メールはエンピツ

きょうも京葉線に乗った。とある駅でどっと男女の高校生が10数人なだれこみ、大きなバッグを全員床においた。そのとたん、全員が携帯電話を取り出し、いっせいに画面に見入る。そのうちポケットにしまう者、メールを見せ合って笑う者。彼らにかぎらず、小中高生にとって「メールはエンピツ」がわりだそうだ。
携帯電話も進歩したもので、わたしのこの「ブログ」も読めるし、かなり長い文章も書ける。音楽を聞き、テレビも見られ、数人いっしょにメールもできる。切符を買わずに携帯で改札口を通れるそうだ。もちろん写真はいうまでもない。
しかし81歳のこのじいさん。携帯はどうも気にくわない。字が小さいからでもない。携帯でも字は大きくできる。つきつめれば文章へのこだわりだ。
もちろん携帯で長い文章も書けるが、どうしてもこまぎれ文になりがちだ。電報のような文章では表現能力は養えない。わたしのパソコンのメールでも電報文がけっこう多い。
短文が光るときもある。「君の信仰が(わたしの力を引き出して)君を救った」。しかしイエスは、山上の説教のような長い、深い、豊かな、心にしみる、堂々とした、いちど聞いたら忘れられないことばを残される。便利なメールが壊しつつあるもの。それが惜しい。
「ことばの内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1・4)