人間の熱心、主の熱心

ふたつの熱心がある。人間の熱心と、主の熱心。旧約のエリヤも、新約のペトロも、パウロもすごく熱心だったが、最初は人間の熱心だ。
エリヤは偶像の預言者450人と戦って勝った。しかし王妃に脅されて逃げた。なぜ逃げたか。彼の勝利にだれ一人拍手しなかったからだ。ぽきっと折られた彼は、うつ病のように洞穴にこもる。
ペトロも熱心で、他人はダメでも、わたしは命がけで主に従うと豪語する。その舌の根も乾かぬ内に「イエスなんか知らねえ」と言い切る。鶏が鳴いて彼はぽきっと折られた。
パウロもクリスチャン迫害に熱心で、ダマスコ郊外まで走り、そこで打ち倒される。その熱心がぽきっと折られた瞬間だ。
そのあと、三人に細い静かな声がひびく。エリヤには、自分の内にこもらず「穴を出よ」。ペトロには静かなガリラヤ湖畔で「わたしの羊を飼え」。パウロには「なぜわたしを迫害するか」。
ここから彼らは主の熱心に変わる。他人と比較しない熱心。砕かれた熱心。やってもやっても誇れない熱心。冷めた熱心。主の熱心に支えられた、主にある熱心だ。
はたせるかな、エリヤはつむじ風で天に挙げられ、ペトロは獄中で熟睡し、パウロもわたしは弱いとき強いと喜ぶ。すべて土台を主の熱心の上に据え、ゆったりとした時のことだった。
「万軍の主の熱心がこれをなされる」(イザヤ9・6)