つらい長寿 うれしい長寿

わたしの母は103歳11か月。まさに長寿。しかし長寿は求めて得られるものではない。振りかえれば104歳近くまで生かされたということ。
けさも「どうですか」と言うと、「右手が痛い。右の胸が痛い」といって、つらそうに額のしわをよせる。つらいときはつらい顔をすればいい。無理に笑うことはない。
「草は枯れ 花はしぼむが わたしたちの神のことばは とこしえに立つ」(イザヤ40・8)と、わたしが筆で書いた大きな紙を見せると、ひたいのしわを伸ばし、目をこらし、声に出して読む。「ええみことばや、すらすら書いてる」と、いい顔になる。
小さい子どもは、きのう出来なかったことが、きょう出来る。母はきのう出来たことが、きょう出来ない。
この7月半ば、母は足でふんばる力、手で握り支える力が急に衰えた。車椅子に乗せ、トイレに立たせ、また寝かせるのが一仕事。ほとんどの世話を妹がする。
歳を重ねれば、日々肉体の衰えがすすむ。妄想も出る。1年前とはまったく違う。本人もつらいし、周りもつらい。長寿はつらいことでもある。
しかし母は恵まれた長寿をすごしている。息子と娘しか子がないのに同居。その嫁、婿がやさしい。なによりも子や孫が、右を見ても、左を見てもキリスト信仰。これ以上うれしい長寿はない。
「わたしは長寿をもって彼を満ちたらせ、わが救いを彼に示すであろう」(詩篇91・16)