進むか退くか。信仰と教会

キリスト信仰は止まっていない。進むか退くかだ。教会も同じ。進んでいるか、退いているか。ぐっぐっぐっと増えるときと、ずっずっずっと減るときがある。
米国フィラデルフィアでのこと。ここはウイリアム・ペン以来のクエーカーの中心地。ぜひクエーカーの礼拝に出たいと思った。
娘の住まいの近くの会堂をさがしてもらい、礼拝の時間もたしかめて、娘婿とふたりで出かけた。林の中に墓地もそなえたかなり大きな会堂。時間前だったがだれもいない。ドアは開いたので中へ。クエーカーらしく会堂を二つにわけ、対面式に中央からうしろへ階段状に座席が高くなる。ざっと300人は座れる。ふたりは少し高い所にすわった。
定刻10分ほどすぎて中年の女性が二人こられた。しかしクエーカーの沈黙。賛美歌もない。わたしはかなり祈ったあと、その午後、日本人教会でする15分説教(通訳10分)の暗誦。ついにあきらめて階段を降りると、上品なふたりの女性も立ち上がり、にこやかに挨拶。むかし会堂に満ちたはずの会衆は消えていた。
午後、フィラデルフィア日本人教会は活気にあふれていた。伝統ある大きな会堂に人影が消え、小さな会堂に喜びと力が満ちる。
「そのとき、あなたは主を喜びとする」(イザヤ58・14)