矢を放つ

弓を左手(ゆんで)で前へ押し出し、右手(めて)でその弦を強く引き絞るほど、つがえた矢は遠くへ飛ぶ。
では弓とはなにか。弓は主から与えられたこの自分。その器量は長短さまざま。弓にたとえれば、大弓もあり、小弓もある。その大小を誇らず嘆かない。
その弓を左手に握り、矢をつがえつつ、右手で弦を引き絞る。キリストへと深く、もっと深く引く。それは同時に左手で力いっぱい前へ押し出す力と連動する。自分をこの世に押し出す。主のために前へ出る。恥ずかしい自分だが、自分を見ないで、的を見る。そのとき内なる自分はキリストに引き込まれ、吸い込まれ、キリストに集中する。この形がいい。
では矢とはなにか。もちろん矢は、一人一人のクリスチャンだ。キリストに引き 込まれ、吸いこまれた度合いが大きいほど、矢は遠くへ飛ぶ。使徒パウロは満月のように、キリストに引き絞られたから、ひょうと矢が放たれたとき、当時のキリスト教会のだれよりも遠くまで飛んだ。アジアへ飛んだ。ギリシアへ飛んだ。ローマへ飛んだ。
では的とはなにか。キリストの救いを待つ魂だ。その魂のまん中に矢をうち込むのだ。ふにゃふにやした聖書の話は、飛ばない矢、的を外す矢。ぐさっと突き刺さる矢こそ、的を射た矢だ。
「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事がある」(第2コリント11・28)