戦争と信仰と深い体験

あまりにも深い体験をすると、人は寡黙になる。どんなに説明しても、その深みは分かってもらえぬと思うからだ。
ひとむかし前、わたしの周りにシベリアでソ連に酷使された方がそこここにいた。50万人の日本人が連行され5万人が死んだ。その方たちはほとんど捕虜生活を話さなかった。
昨夜、NHKが61年前の硫黄島全滅戦を放送した。2万人の日本兵が戦死し、米国海兵隊4500人が死んだ戦場だ。そこから生還した元日本兵らが重い口を開いたのだ。
日本の大本営は「玉砕」と美しい言葉を使ったが、死闘の島の日本兵は塗炭の苦しみだった。張りめぐらされた地下壕は地熱が高く、水も食料もつき、炭もたべ、米軍に投降したら日本の戸籍で「国賊」にされるとおどされ、業を煮やした米軍の、火炎放射の火責め、海水注入の水責め、ガソリンを流しての火炎責めまで経験したが、61年間沈黙。
ビルマニューギニアの帰還兵も、その飢餓について語らなかった。だから唯一口を開くのは「戦友会」だ。みなが同じ体験をし、すっと分かり合える仲間。
これはキリスト信仰にもいえる。キリストを信じる前の苦しみ。信じたあとの喜びと平安。ひとさまに説明しても分かってもらえないが、クリスチャン同士だとすっと分かる。だから「教会」で、同じ体験、喜びを証しするのだ。
「たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災いはあなたに近づくことはない」(詩篇91・7)