ハイラルからの手紙

shirasagikara2006-08-10

河野義克さんは、東京大学を出て内務省に入り、岐阜県庁につとめたた翌年、1938年に召集され、満州国ソ連に近いハイラル国境守備隊に二等兵として配属された。
ところが翌年ノモンハン事件が勃発。日本軍はソ連の戦車2200に対し200輌。30個師団に対し11個師団。日本兵の死傷者は兵力の76㌫にのぼる惨敗。
河野さんはその間、東京の家族、とくにのちに結婚する婚約者と筆まめに文通。それが2003年河野さんの遺品から偶然発見された。その交換書簡が「ハイラルからの手紙」だ。
この往復書簡を読んで三つのことを思う。第一はつねに死を目前にして生きた体験の持ち主だということ。第二は将校にならず下級兵士で通し、弱い立場の者への同情が強い人だったこと。上官に殴り倒されながら「痴(し)れものに面(おもて)はられつ日ノ本を担ふ我ぞと頭(かしら)を上げぬ」。第三はこのお二人の知的レベルの高さと高貴な精神だ。ハイラルにロンドン・タイムスや中央公論を取り寄せ世界情勢を分析し、暗記した「会議は踊る」「メリーウイドウ」の歌詞を、ドイツ語や英語で従軍手帳に書きとめる。
河野さんはのち国立国会図書館長に就任、わたしはその下で働いた。名館長であった。また夫人は1994年に、河野さんは2001年にカトリックで受洗。2003年死去。90歳。

「いちばん上になりたい者は、みなのしもべになりなさい」(マタイ20・27)