自転車と信仰

新しい自転車を買った。自転車も進化したと驚く。第一車体が軽い。また暗くなると自然にライトが点く。それに鍵。レバーを下げるとカチャンと前後輪に施錠する。
さっそく乗って近くのスーパーへ。この小回りがきくのがいい。古い自転車が使えなくなり、重い荷物をかついで郵便局や宅急便へ届けに出かけたが、これで助かる。
しかし「自転車操業」という言葉通り、自転車は走っていないと倒れる。もちろん走らないときは立てられる。しかし自転車は走らせてこそ値打ちがある。飾り物ではない。
キリスト信仰も床の間の飾り物ではない。それは毎日、動かして、走らせて、使うためのものだ。いや、走っいないとだめになる。信仰が錆びる。
その信仰は自転車のように、小回りがきくのがいい。大伝道だとか、迫害に耐えるなんて大きなことを考えず、小さな日常の中でキリスト信仰が光る形がいい。だれも知らないうちに、教会のスリッパを洗っている。いつの間にか教会や会社のお花を活けかえている。ギラギラせずに、黙って、喜んで、ひとさまと比較せず、何もなかったという風情。それが自転車信仰。その自転車信仰も、錆びないためには油が大事。聖霊の油だ。それもぽたぽた落ちるようではいけない。適度に差し理性でふき取るのだ。
「主に望みをおく人は、走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40・31)