一瞬にしてわかる

息子がアメリカの大学へ入ったころ、授業の内容がなかなか理解できなかった。日常会話なら相手が自分に合わせて話してくれるが、授業は専門用語でどんどん進む。友人とコミュニケーションがとれたのは、会話のいらないサッカーだったという。ところがある日テレビを見ていて、すーっと会話がわかった。浴びるように分からない英語を聞いているうち、「ああ、わかった」という一瞬があるようだ。
友人の小山こうすけさんが、日本基督教団からタイ国へ宣教師として派遣されたとき、まずタイ語を学んだ。こんな文字、理解できるかと悪戦苦闘するうち、ある日、大きな河の船着場に掲げられた横断幕の文字が、すーっと読めたそうだ。 「ああ、わかった」という一瞬だった。彼はタイ国の神学校でも教え、日本の高官の通約もし、のちNYのユニオン神学校の教授にもなった。
キリスト信仰にも「ああ、わかった」という一瞬がある。それはうまく説明できないが、「不信」から「信仰」への一線をたしかに越えている。
理解できない悩みを身に浴びつつ、一所懸命、苦しみ努力していると、キリストの救いの中にすでに入れられている自分が一瞬にして見えてくる。
すべての回心記がそうであるように、「なぜ」「どうして」には答えられない。内村鑑三の回心記も「余はいかにして基督信徒となりしか」で、「いかにして」と、その経過しか話せない。悩む自分から、ピョンと信じて喜ぶ自分にとびこえている。
もちろんあまり悩まず、素直にキリスト信仰に入る方もいる。悩み抜いてから信じる人もいる。ただ悩んで信じた人は、ほかの方を導くことが出来る。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(ヨハネ9・37)